「青梅まちづくりネットワーク」の村野公一さんと大倉十彌也さんが11月22日、S&Dたまぐーセンター(青梅市上町)で「青梅のまちはこうしてできあがった」をテーマに講演した。鎌倉時代から昭和までの歴史を俯瞰(ふかん)し、資料を基に青梅のまちづくりの深さと原動力に迫った。
講演では、村野さんが概略を解説し、大倉さんがこぼれ話や推察を加える形で進行した。
鎌倉時代、御岳山に畠山重忠が奉納したと伝わる赤糸威大鎧(あかいとおどしおおよろい)があるように、青梅と鎌倉幕府の結びつきは強く、武蔵御嶽神社の本殿は鎌倉を向いていた。鎌倉街道もあり、大倉さんは「鎧の送り主は、本当は頼朝だった」と自説を披露した。
江戸時代になると江戸の町に石灰やまき、炭などが青梅から運ばれ、青梅街道が整備され、「ビジネスシティーの第一歩を歩み始めた」と村野さん。主導したのは八王子のまちづくりでも知られる大久保長安。まちは、山、崖、多摩川に囲まれ、守るに適した地に形成され、市が開かれた。当時の絵図には関西の銘酒「剣菱」が描かれているなどにぎわいぶりが分かるという。
大倉さんは「当時、青梅の人は成木街道を江戸道と呼んでいた」とし、「青梅のまちは江戸に直結していて、江戸と同じように繁盛していた」とした。
まきと炭とともに青梅の経済を支えたのが、青梅綿。青梅ブランドと言ってよく、やがて絹と木綿を混ぜて織る「青梅縞(おうめじま)」が世に出ると、江戸の人たちのおしゃれ心とマッチし、大ヒットした。大倉さんは「青梅縞がなかったら青梅の発展はなかった。青梅縞の大ヒットは夜具地の産地の土台となった。青梅は江戸時代の豊かさがあって、明治以降、都内で5番目に早く市制を施行し、西多摩の核になった」と指摘した。
文化力も高く、1872(明治5)年の学制発布の前に青梅各地に学校ができ、山車祭りなど江戸の祭りがそのまま取り込まれた。
1894(明治27)年に青梅線が開業すると石灰を都心、川崎に運んだ。大正時代に入ると運ぶものに人が加わる。村野さんは100年前の絵図を示し、日向和田駅や御嶽駅のにぎわいから吉野梅林や奥多摩観光の入り口として栄えた様子が分かるとした。
多摩川の渡しが姿を消し、木造ながら橋ができた。昭和の初めには水道が引かれた。そして全国の8割のシェアを誇った青梅夜具地の大ヒットは青梅経済を支えた。太平洋戦争で空襲を受けなかった幸運もあり、1951(昭和26)年に市制を施行。1955(昭和30)年には吉野、三田、小曽木、成木の4村が加わり今の青梅市の形になった。この時の中村来内市長は広報で「大青梅市ここに発足」と発展に希望を託した。
村野さんは「大青梅市発足から今年はちょうど70年。祝賀行事がないのは少し寂しい気もする」と振り返り、「先人が残してくれたものを最大限に生かして市の発展につなげてほしい」と呼びかけた。
講演は11月15日~23日、たまぐー企画展「青梅のまちはこうしてできあがった」に合わせて開催された。企画展では村野さんが集めた100年前の青梅&青梅線の観光戦略が分かる図、75年前の青梅市街の様子がつぶさに分かる図、50年前の青梅駅前の改造計画の前後が分かる図などの資料も展示し、「当時のことがよく分かる」と好評だった。